普段は家に引きこもっていることが多いわたしも、たまには同窓会に呼ばれることがあります(笑)。つい先日も中学校の同窓会があり、そのついでということで8月13日に長野電鉄を訪問しました。
沖縄県営鉄道や大東糖業専用鉄道(南大東島)の廃線跡を取材したことがあるくせに、実家からそう遠くない長野電鉄に乗るのは、実は初めてです。
高崎線、信越線、JRバス関東碓氷線、しなの鉄道線を乗り継ぎ、まずは屋代駅から長野電鉄の屋代線に乗車。車両はかつて帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)の2号線日比谷線で使われていた3000系です。現在の形式は3500・3600系で、赤帯が追加されたりワンマン運転対応などの改造工事が施工されているものの、外観の印象は日比谷線時代とほとんど変わりありません。
わたしの親せきが茅場町に住んでいる関係で、3000系には何度も乗りました。「マッコウクジラ」などと呼ばれた運転台の外観は、子供のころはやぼったい印象しかなかったのですが、久しぶりに前面を眺めてみると、やはり懐かしいという気分になります。
それにしても、ステンレス車に懐かしさを覚えるようになるとは。いずれはE231系を見て「懐かしいなぁ」などと思う日が来るのでしょうか。
長野電鉄には、ほかにも他社から譲り受けた電車が多数運行されていまして、屋代線と長野線の乗り換え駅である須坂駅では東京急行電鉄(東急)の8500系も見かけました。
極めつけは小田急電鉄の「HiSE」こと10000形。旅客向けの前面展望室を持つ「ロマンスカー」で、編成こそ短くなっていますが、それ以外は小田急時代とほとんど変わりなく、長野〜湯田中間を結ぶ特急「ゆけむり」として運用されています。湯田中からの帰りに特急の前面展望席を利用しましたが、展望室から前方を眺めてみると、線路が下へ下へと流れていき、40パーミルという急な下り坂を実感できました。
他社の電車が多い一方で自社オリジナルの電車も健在。帰路の小布施駅では丸っこい顔つきの2000系とすれ違いました。
地方私鉄の魅力は、何といっても自社オリジナルから他社譲渡車まで一堂に会する、種々雑多な車両であるように思います。
というより、わたしが鉄道を面白いと感じる瞬間の多くは、「混とん」や「雑多」などと形容できる時ですね。東急と小田急の車両が同じ線路で並んでいる姿など、通常は考えられないような組み合わせは見た目のインパクトが強いですし、それをきっかけに車両の変遷を調べてみると、これがまた波瀾(はらん)万丈であったりして、さらにのめり込んでしまうわけです。
ちなみに、来年には「成田エクスプレス」で使用されていたJR東日本の253系も運用を開始することになっています。
ただ、長野電鉄も全国のローカル線と同様、自動車社会の浸透や少子高齢化の影響で厳しい経営が続いています。
かつては屋代〜須坂〜信州中野〜木島間を結ぶ河東線、長野〜須坂間を結ぶ長野線、信州中野〜湯田中間を結ぶ山の内線の3路線によるネットワークを形成していましたが、2002年に河東線の信州中野〜木島間(通称「木島線」)を廃止。これに伴い線名を整理し、長野〜須坂〜信州中野〜湯田中間を長野線、屋代〜須坂間を屋代線としていますが、近年は長野市の中心部を通らない屋代線の廃止が取りざたされているところです。
そもそも、地方私鉄が種々雑多な車両群になりやすい傾向にあるのは、経営が厳しく自社オリジナルの新車をあまり導入できないという背景があるためです。
国土交通省鉄道局監修『平成19年度 鉄道統計年報』(電気車研究会、2009.11)によると、屋代線の平均通過数量(輸送密度)は459人。過去に廃止された鉄道の輸送密度を見てみると、副業による内部補助などを考慮しても、おおむね1000人が存廃のボーダーラインになっているように思えますので、屋代線はいつ廃止されてもおかしくない状況です。
長野電鉄や沿線自治体では、列車の増発などの利便性向上実験を実施しているところですが、屋代線の経営安定化を図るためには、少なくとも現在の輸送密度を2倍近くに引き上げる必要があるでしょうし、沿線自治体などからの金銭的な支援を受けられない限り、存続は難しいでしょう。
大量・高速・定時の3拍子がそろってこそ、鉄道はその真価を発揮できる。それを考えると、屋代線の廃止はやむを得ないことだと思います。その一方で、わたしが面白いと感じる鉄道が減っていくことに一抹の寂しさも覚えるわけでして、どうにも複雑な心境です。
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