「後日書く」と引っ張ってきたスヴィレングラート以遠ですが、ちょっと思うところありまして、スヴィレングラート→ベルリン間の話は別の機会に譲り、おまけ部分のベルリン→ロンドン間のみ書きたいと思います。ちなみに第50〜53日の移動経路は以下の通りでした。
第50日(5月29日):スヴィレングラート→プロヴディブ
第51日(5月30日):プロヴディブ→ソフィア→ベオグラード→
第52日(5月31日):→ブダペスト→ウィーン→
第53日(6月1日):→ベルリン
ベルリン到着の翌日、ベルリン中央駅近くのホテルをチェックアウトし、世界最短の地下鉄路線といわれるU55に乗ってブランデンブルグ門へ。さらに地下鉄や路面電車、Sバーンを乗り継いで、ベルリンの壁が残っているエリアを中心に市内を回りました。
この旅行は東京→ベルリン間を中央アジア経由で、可能な限り鉄道を利用して移動するという趣旨だったので、ベルリンの壁自体は旅行の目的とは関係ありません。しかし、ベルリンに着いたら、壁だけは絶対に見ておきたいと思っていました。
わたしは中学から高校にかけて、「東西冷戦下の世界情勢」を前提に地理の授業を受けてきました。そのせいなのか、当時のわたしは冷戦が終わってほしいと願いつつも、心の底では絶対に終わることのない、終わるはずがないという、半ばあきらめにも似た考えを持っていたように思います。それゆえ、ベルリンの壁が崩壊したときは本当にショックを受けました。学校で習ってきたことが一瞬にして崩れ去ったのですから。
あれから20年以上がたち、壁の残っている場所はかなり減りましたし、そもそも残っている壁自体、ただのコンクリートの塊でしかないのですが、これを越えようとして命を落とした人が大勢いて、今は観光資源になっていることを考えると、複雑な思いに駆られます。
壁回りを終えて、Sバーンでベルリン動物園駅を訪れると、ホームの端で三脚を立てている若者がいました。おそらくドイツ人の鉄道趣味者なのでしょう。「ここにもいるのか」と、妙な感動を覚えました。
いろいろ回ってベルリン中央駅に戻り、19時57分に発車するパリ東行きCity Night Line『ペルセウス』に乗車せんと地下ホームへ。ところが、ホームで列車を待っていると駅員が寄ってきて、列車番号や時刻らしきものが書かれた紙を見せながら英語で話しかけてきます。その紙にはベルリン→ハノーファー間のICEの時刻と、ハノーファー→パリ間の『ペルセウス』のダイヤが記されており、駅員は「プロブレム」と言う。要するに、今日の『ペルセウス』はハノーファー発になったので、ここからICEに乗ってハノーファーへ行け、ということのようです。
駅員の指示通り、ブレーメン行きのICE832列車が発車する高架ホームに向かいましたが、このICE832列車も約30分ほど遅れてベルリン中央駅を発車。車両に関してはよく分からなかったのですが、動力集中方式でICE842列車との併結運転でしたから、第2世代車両のICE2と思われます。
図らずも初めて乗ることになったICE。しかし、予定の列車に乗れなかったという焦りのせいか、どうも印象が薄い。かなりの速度で飛ばしていたことは確かでしたし、日本の新幹線とは異なる座席配置や食堂車の連結にも興味を引かれましたが。
ハノーファーには22時ごろ到着。すぐに『ペルセウス』が入線しているはずのホームに向かいましたが、そこにはモスクワなどからやってきた寝台車が後方で停車しているだけで、わたしが予約したクシェット(6人部屋の簡易寝台)はまだ入線していません。本当に『ペルセウス』はやってくるのかと不安になりましたが、ほどなくして数両の『ペルセウス』客車編成が現れて、後方にいたモスクワ発の寝台車に連結されました。
わたしの部屋は白人の男性と女性が一人ずつ、そしてアジア系の若い女性が二人。アジア系の二人は台湾から来たそうで、そのうち一人は頭がツルツルで、作務衣(さむえ)のような服を着ていました。仏教圏ですから当然と言えば当然ですが、台湾にも尼僧がいるのですね。
●行程
ベルリン中央1948(2020ごろ・約30分遅れ)(ICE832)2128(2200ごろ・約30分遅れ)ハノーファー中央2216(2230ごろ・約15分遅れ)(CNL450)→
第54日(6月2日):ベルリン→ハノーファー→
