オリエント急行と阿川弘之

 オリエント急行の事実上の廃止(1977年5月)と相前後して運転を開始した、観光ツアー列車としてのオリエント急行は、「ノスタルジック・イスタンブール・オリエント・エクスプレス(NIOE)」と、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)」の2種類がある。有名なのはVSOEだが、歴史的には1976年から運行を開始したNIOEの方が古い。1988年に日本で運転されたのもNIOEだ。

 鉄道ファンとしても知られる阿川弘之はNIOEに乗車したことがあり、「南蛮阿房第2列車」所収の「最終オリエント急行」にそのときの模様が記されている。乗車した時期は5月某日とあるだけで年は書かれていないが、「聞いてみると、この五月下旬、オリエント急行が九十四年の歴史を閉じる日、スイスの旅行社が『郷愁のオリエント急行』なる特別列車を、チューリッヒからイスタンブールまで別に走らせる」と記されているので、どうやら1977年5月に乗車したらしい。
 ところで、阿川はチューリッヒ駅のホームにNIOEが入線してきたときのことを、以下のようにつづっている。

 博物館行きの国際寝台車がブルーの胴体に由緒ある「ワゴン・リー」の金文字を飾っているけれど、その金色文字は剥落しかかっていた。一とかけこそげ落して、記念に財布へしまいこんだ。

 要するに、「博物館行き」になるような文化財的価値のあるワゴン・リ車のエンブレムを、阿川は削り取ってしまったのである。
 阿川弘之といえば、のちに「違いのわかる男」のCMにも出演したこともある著名な作家、しかもNIOE乗車時には50歳を越えた「大人」である。それにも関わらず「一とかけこそげ落して」しまう姿に、「大人の見識」を感じとることは難しい。
 もっとも、阿川がこの一件で批判を受けたという話は聞かないから、当時の日本人のマナー感覚自体が、阿川と同じ程度だったのだろう。

 最近、岐阜市立女子短期大学と京都 産業大学の学生によるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂での落書きが盛んに報道されているが、このことを阿川がどのように考えているのか、聞いてみたい気もする。