この「高速鉄道建設史」では、戦前に計画された東京〜下関間の新幹線計画、いわゆる「弾丸列車」に触れ、この頃に作成された「弾丸列車東京駅(東京駅併設案)」の平面図を載せました。これは、弾丸列車の東京ターミナルを現在の東京駅に併設する案の平面図で、一般的な雑誌や書籍などにおいてはおそらく初公開の代物です。非常に貴重な図面と思われますので、一度目を通していただければと思います。
ただ、弾丸列車計画のことをご存じの方なら、この図面を見て「あれ?」と思うかもしれません。「弾丸列車東京駅」は、市ヶ谷が予定されていたはず……と。
確かに、市ヶ谷は「弾丸列車東京駅」の最有力候補といわれており、いくつかの文献にも、その旨記載されています。たとえば『日本国有鉄道百年史 第11巻』(日本国有鉄道、1973.3)によると、東京ターミナルの位置は
始発駅として東京・市ケ谷・新宿・荻窪の4案が比較検討された。すなわち旅客輸送上の利便、首都の交通政策上、また当時都市計画として防空上の配慮が種々議論され、市ケ谷案が最も有利とされていた。これは便利さでは東京に次ぐが、建設工事費は荻窪に次いで安価であり、都市計画上も有利とされたためである。なお、貨物施設・客車操車場についても旅客駅と関連して決定すべきものとして併行論議されたが、いずれも結論に達しなかった。
としています。正式決定には至らなかったものの、市ケ谷案が有力視されていたことは間違いないようです。
しかし、戦前の鉄道省の官僚で、弾丸列車計画のまとめ役であった権田良彦は、
確かに、東京駅に乗り入れるか、郊外に移すかの激しい議論はあった。でも、東京駅で数日間にわたって特殊調査をした結果、『これは東京駅しかない』となった。この調査を行ない、膨大な資料を分析して人口の中心を求めると、いやが上でもいまの東京駅にならざるをえないのです。やはりここが東京の中心なんです。それで、決まっちゃった。
(前間孝則『亜細亜新幹線』講談社、1998.5)
と語っています。権田の話を聞く限り、市ケ谷案は最有力候補ではなく、それどころか東京駅に併設することが「内定」していたように思えます。
戦後に計画された東海道新幹線の東京ターミナルも、後の東北新幹線などに相当する北部延伸や乗り換えの利便性、用地取得の容易性などを比較検討して東京駅に決定されていますが、その背景には、弾丸列車が計画されたときの「内定」の存在があったのかもしれません。