
本日より「電子書籍」の試験販売を始めました。PDFファイルにまとめた記事を、私のホームページで直販しています。
第1弾は『鉄道未完成路線の落ち穂拾い 岳南鉄道西部線』です。ある意味では昨年8月に出した単行本『鉄道未完成路線を往く』の続編になります。久々にボリュームのある未成線記事を書くことができました。

いちおう『鉄道未完成路線を往く』の続編的な記事ですから、本来は紙の本や雑誌で発表したかったのですが、何分にも企画が通らない状況でして(苦笑)。そんなこんなで、このような形態での販売になりました。
単なるPDFファイルを「電子書籍」といっていいものかどうか微妙ですし、直販という手段も含めて商業的に通用するかどうか分かりません。ただ、内容に関しては紙の本や雑誌に寄稿している記事と同等なものに仕上がったと思います。
このような形態での発表に違和感を覚える方もおられるかもしれませんが、企画が通らないからといってネタを塩漬けにしておくわけにもいきません。「これからの時代は電子書籍!」らしいですし(笑)、ご理解いただければ幸いです。
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※追記(2012年7月12日1時20分):うっかりして目次を書くのを忘れていました(汗)。目次と主要見出しは以下の通りです。
岳南鉄道西部線路線図
岳南鉄道西部線を往く
左富士信号所〜日産前駅〜新吉原駅
新吉原駅〜新追分駅
新追分駅〜宮川町駅〜伝法学校前駅
伝法学校前駅〜中桁駅
中桁駅〜久沢駅〜入山瀬駅
富岳南麓を貫く鉄道構想の変遷
東海道本線の開業を機に計画された 鉄路から外れた地域を結ぶ馬車鉄道
富士馬車鉄道に続いて浮上した 沼津方面に延びる鉄道整備構想
新線と新駅の開業で馬車鉄道が消滅 根方街道への延伸計画も水泡に帰す
再浮上した鉄道計画は競願の末に中止 東海道本線に接続する専用鉄道は実現
戦時体制の「大風呂敷」転じて 専用鉄道を活用した路線が開業
西部線は未着工のまま消滅 青葉通り新線も具体化せず
貨物廃止で現行路線も廃止の危機 公的支援充実が存続の鍵となるか
ちょっと寄り道 終着駅の先に残る沼津延伸構想の名残
コメント
初めまして草町さん。
昨年度まで沼津市の原近辺で働いていましたので、岳南鉄道の未成線にも興味を持ち、本当にわずかですが調べておりました。今回草町さんの電子書籍を発見し、すぐにDLさせていただきました。自分の調べていた事と比べるまでもなく、濃い内容で大変楽しめました。
ただ、草町さんが参考資料に上げられていたものに含まれていない物で「原田少年ふるさと学級 岳南鉄道の歩み」が上げられていないので気になりコメントさせていただきました。すでにご存知でしたら恐縮なのですが、昭和58年頃に富士市立原田小学校の学童がグループ学習で制作した、コピー刷りの小冊子なのですが、当時まだ存命だった地元の高齢者より聞き取り調査したとおぼしき、鉄道開通以前の鉄道用地の使用方法や引き込み線の略図、運転時のアクシデントなどが記載されています。なかでも秀逸なのが、当時富士市公設地方卸売市場社長だった、中井芳太郎氏の講演が記録されていることです。そこだけ筆跡が成人のもの(おそらく指導の先生が代筆された物だと思います)になり、岳南鉄道の詳細な(中井氏個人の記憶も大ですが)生い立ちが記載されていますので、もしよろしければ読んでいただければと思います。それによりますと、沼津側の要望により、芝浦製作所の引き込み線につなげる形でのルートで測量まで行ったそうです。
また、昭和42年所蔵の「富士 −吉原を中心に− 富士市教育委員会編」という小学校郷土学習資料には「路線も現在は、吉原ー江尾間ですが、沼津まで通じるようになりますと一層、私たちの生活も便利になり、産業の発展にも重要な役わりをはたすことと思います。」といった表現がありますので、公的な動きはわかりませんが、地元では西部線に比べ、沼津延伸計画のほうが比較的後年まで語られていたように感じました(入山瀬延伸は二の次のような印象を受けました)。
上記にあげた資料は富士市中央図書館で閲覧できます。自分がつかめた情報はこれぐらいです。長くなりました。失礼いたします。
元にわか沼津市民さん>
こちらこそ初めまして。この度はお買い上げいただきありがとうございます。
>沼津側の要望により、芝浦製作所の引き込み線につなげる形でのルートで測量まで行ったそうです。
ご教示いただきありがとうございます。芝浦製作所というのは現在の東芝機械沼津工場でしょうか? そういえば駿豆鉄道が戦時中に申請した路線のうち、沼津〜大岡間のルートは同工場への引き込み線に合致しますね。その一方、戦後の申請は本文で触れた通り、旧海軍工廠の引き込み線を使うことになっていましたから、中井芳太郎さんのお話は戦時中に申請した際の記憶のようですね。
本文では触れませんでしたが、沼津〜静浦間の申請路線も東海道本線の貨物支線と合致しますし、貨物線の活用が強く意識されていたようで。結果的にはこれが、日産自動車専用鉄道の活用という発想につながったのかもしれません。
>地元では西部線に比べ、沼津延伸計画のほうが比較的後年まで語られていたように感じました(入山瀬延伸は二の次のような印象を受けました)。
これは私も、調査や取材を重ねていく過程で強く感じました。あくまで想像ですが、建設運動を展開する上で「岳南鉄道の建設は富士郡の総意」ということにするため、西部線を計画したのではないかと。この計画がなかったら、鷹岡町などが運動に参加する必然性はないわけですし。
正直、電子書籍「もどき」はどうなんだろう? という思いがありましたが、こうして読者の方からダイレクトにご意見、ご教示をいただけるのはうれしいです。紙の本ですと、その辺がイマイチなんですね。もっとも、生活費的には紙の雑誌や書籍の方が圧倒的で、その辺が厳しいところなのですが(苦笑)。いずれにせよ今後も調査を続け、時期を見て発表できればと思います。
また長くなりますがご容赦願います。
転勤に伴い、手元には数点の資料の写ししか無く、また富士市にも気楽には行けないような所に居住していますので、草町様の今後の調査に大いに期待しています。
沼津延伸の計画は戦後の計画のようです。
「(江尾まで開通後)その後沼津からひじょうな働きかけがありまして、全部測量もすませたのですが江尾から沼津の御殿場線の方になりますが芝浦製作所の専用線につなぐ計画です。又本町駅から鷹岡に出て身延線につなぐ計画などありましたが、できませんでした。」
吉原市史に記されている期成同盟会の計画と表現の扱いが矛盾しているように感じられます。敷設予算4000万円のうち、西武鉄道が2000万円分の資材の現物支給をおこない、残りを地元側で負担・・・や国道1号線との平面交差問題や貨物運賃の通算制に関して、当時の運輸大臣山崎小五郎氏、田中角栄氏をまねき働きかけをした等のエピソードもあります。
中井芳太郎氏は昭和22年に岳南鉄道期成同盟会実行委員長に就任した当時の吉原町助役です。岳南鉄道発足時の常務取締役もつとめています。戦前の東京人絹専用線を吉原町が敷設した時の役場側の担当者だったようで、当時から町側は旅客転用を期待していたようです。
元にわか沼津市民さん>
再度のご教示、恐縮です。
なるほど、「江尾まで開通後」ということは1953年以降の話でしたか。旧海軍工廠の引き込み線を活用するプランは、本書でも記した通り、駿豆鉄道が戦後の1946年に申請したときのものですから、芝浦製作所専用線の活用プランが江尾開通後の話なら矛盾しないのではないかと思います。駿豆鉄道時代の1943年と1946年だけでなく、岳南鉄道時代の1953年以降も積極的な動きがあったのですね。
実のところ、江尾開業後の沼津延伸構想の状況や西部線の免許取得後の経緯については、一次史料がほとんど見つからず難渋しました。ある意味では、まだまだ調べがいのある未成線だと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。